往来物手習い
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。
昨年11月から寺子屋塾で学習されている本田信英さんが、6ヶ月間の学習をふりかえって文章を書いて下さいましたので、今日はそれをご紹介しようとおもいます。
本田さんが3ヶ月をふりかえっての文章は、こちらのblog記事でご紹介したことがあるので、読まれた方もいらっしゃるかもしれません。
以下、本田さんが書かれた文章です。
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半年を終えて 本田 信英
らくだメソッド(以下ラクダ)を始めて半年が過ぎた。 今、私は3ヶ月目の時とはまた違った状態にいる。 3ヶ月目までは「自分に気づく」ためのプロセスだった。今まで意識的あるいは無意識的に見ないようにしていたことがラクダを通して炙り出すような時間だったと思う。 それはまっさらな金脈で砂金を見つけ出すような行為だった。次から次へと発見があり、その作業はどちらかといえば楽しかった。「知っている」と思っていた私自身の知らない一面をどんどん知ることができたからだ。時には嫌なものも出てきたけれど、それは探索と発見のプロセスはとても愉快だった。 そして半年が過ぎた今、別の過程に移り変わってきたように感じる。 すなわち、「自分と向き合う」プロセスだ。 浮き彫りになった自分に気づいた。 ただそれだけではどうも前に進めないぞ、ということが朧ろげながらわかってきた。 気づいた以上はもはや、そのまま眼を逸らすことはできない。出先で自分の寝癖に気づくと、もうそのままにしておくのは辛いようなものだ。 けれど直そうと意気込んだらいきなり変わるものでもない。 なぜなら、それは自分が生きてきた年月だけ身体に染み込んだものだから。ちょっとやそっと染み抜きを使ったくらいでどうにかなるものでもない。 そこで初めて直面した。自分を変えることの難しさに。 こうしよう、と頭では思っていても身体は慣れ親しんだ方向へと動いてしまう。手ぐしではなかなか寝癖が直らないように、思い通りにならないのが歯がゆい。 自分の「出来なさ」と相対することが以前はそれほど辛くなかったけれど、今は少し辛く感じる。 そこにどんな違いがあるのだろうか? 自らに問いかけてみると、沈黙の後にポツポツと言葉が返ってくる。自分ができないことが当たり前ではなくなってきているのだ。だから「できないこと」が余計に際立って迫ってくる。 それは自分が前進している証だとわかっていても苦しい。 自分の嫌な面がどうにもならないことに苛立ちすら感じる。 3か月の時点での振り返りで、テニスの壁打ちの例を出したけれど、やはり練習すれば最初は上手くなる。伸び代ばかりだからだ。けれど、ある程度習熟してきた時に、一旦壁にぶつかる。成長自体は続いているのだけど、それは最初に比べればかなり緩やかになってしまっているからだ。 ともすれば、成長していないのではないかと不安がもたげる。 あらぬ方向にボールが飛ぶことはほとんどなくなった。けれど、逆にどれだけやってもスイートスポット(中心)から少しずつずれてしまう。そのズレに意識が向き始めると、もどかしさ歯がゆさが湧き上がってくる。たまにミスをして、とんでもない方向に飛んでいけば、ことさら疲労感がのしかかってくる。 それでもなお続けるということは一体どういうことなのだろうか? 止めてしまえばいいのに、夜遅くとも、疲れていようとも、私を机に向かわせるのはなんなのか? そんな疑問を抱えながら毎日プリントへと向かっている。 そうして壁打ちを重ねていくと、だんだんそんなモヤモヤもどうでも良くなってくる瞬間がある。 考え疲れて、悩み疲れて半ば投げやりな気分で力が抜けてくる。 すると壁打ちの回数を数えることから、いかにペースを、すなわち自分自身を保つことができるかに意識が向き始める。つまり、いつまででも続けられると確信できる心身の状態があって、いかにそれを持続できるかが焦点になってくる。 「壁打ち」という行動をしていたはずなのに、その動作から抜け出して、いつの間にか自分との対話になっているのだ。 ただ、少しでも「良い状態だな」と自分で自覚した、その次の瞬間には慢心が生じて、安定した状態は崩壊してしまう。生き物として、常に変化し続けている人間がペースをキープし続けることがいかに難しいかを思い知らされている。 今はそんな状態だ。 私は自分の求めていた「明確なゴール」がないことに、朧げながら気づいてしまった。 それは井上さんとの会話の中でも既に知っていたことだけれど、実感した。 今は中学生のプリントをやっていて、このまま高校までのプリントを終えたとして、それでおしまいなのかと言われれば終わりはないのだ。 すなわち、100回やってミスしなくなっても1000回やったらミスが出てくる。1000回やってミスがなくても10000回やったらミスが出る。人間はパソコンではないから完璧にこなすことはできない。 つまり、どこにも終わりがないのだ。ただ、いつでも終わらせることはできる。 それは生きることと同じだったりする。 だから私は今、このラクダを通して、どうやって生きていくのかを考えているのだろう。 正直、なぜ毎日続けられているのが自分でも不思議なのだけど、きっとそういうことなのだと折り合いをつけている。(2016.6.1)
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